「ごはんができたよってかあさんの叫ぶこえ」
ずっとずっと昔から、私のそばで寄り添ってくれたメロディーが、歌詞が、目の前で響く。まるで女神さまなんじゃないかってくらいの笑みを浮かべて、ピアノの前で歌い音と戯れるのは矢野顕子、そうアッコちゃんだった。
2018月12月9日、NHKホールで開催された矢野顕子「さとがえるコンサート」へ行ったのだった。誘ってくれたのは母。ファン歴40年にしてやっと最近ファンクラブに加入した母から、11月のとある日に意気揚々と連絡がきたのだった。
「あのね、アッコちゃんのライブがあってね、一緒に行かない?」
そりゃあ行くさ、と二つ返事の私に、母は「意外! 嬉しい」とのこと。
「だってあんた、そんなにアッコちゃん聞いてるの?」
いやいやいや、幼少期の育成環境の影響を舐めちゃあならんぜ。ランドセルに“背負われている”ような低学年から、「ただいま!」と帰宅すれば、家の中で流れているのはアッコちゃん。
その頃は『あんたがたどこさ』などの民謡をカバーした『長月 神無月』のアルバムがヘビロテされていたはず。『いろはにこんぺいとう』も大好きだったし、一人暮らしを始めたばかりの頃は、忌野清志郎とデュエットした『ひとつだけ』を聴いてひとりポロポロ泣いたりした。自然とそばにあった音楽たちは、意外と娘の人生に影響している。
……と、説明するのも面倒だったので、「まあぼちぼち聴いてるよう」とぬるま湯のような温い返事だけ返した。
正直「いや、どんなもんなんじゃろ」と思いながら、寒さ吹きすさぶ原宿駅からNHKホールに向かって歩いていた。
だって聞いていた曲は結構古い初期の音楽ばかり。最近の曲はてんで知らないし、そもそも母とコンサートへ行くというのもなんだかこそばゆい。
私事だが、物書きとして独立して1年が過ぎた。独立したては「食っていけるか」の強迫観念に駆られて、睡眠も不十分のまま必要な休息も取らず仕事を詰め、友人関係はおろか、家族でさえも疎遠になってしまった。かといって、ひとりで冬の長く冷たい夜に耐えられるほどメンタルは強くないことも知っている。突然知人の家に泣いて転がり込んだり、夜中に放浪することもあった。
そんな姿を両親には絶対見せられないことだけはわかっていた。だからこそ自然と連絡は途絶え、「大丈夫?」「元気?」のLINEに時折「元気だよ〜」と返し、小さな嘘を重ねた罪悪感で、携帯を布団に投げた。
やっと最近だ。実家に時々顔を出せるようになった。ある程度貯金も貯まり、仕事のルーティーンも読め、毎日3食食べ、花に水をやり、夜眠るようになった。自分の思う“あるべき姿”に近づけた気がして、生活が静かに凪いでいる。不必要な心配はかけないで済むという安堵感もあり、今回母からの誘いに応じたということを、ここで初めて言語化する。
開演時間を少々過ぎてから、「さとがえるコンサート」ははじまった。
ふわふわのピンクのドレスに身を包んだアッコちゃんは、まさにあの“アッコちゃん”。ニコニコ満面の笑みが本当に可愛らしく、同時に力強い。なんだか神々しかったし、これだけで救われた気がした。2曲目には個人的に大好きな『自転車でおいで』が流れ、自身の幼少期の記憶がどんどん鮮明化していった。
よく泣く子供だった。私はほんとうによく泣く子供だった。毎日一度は必ず涙を流してしまうイベントが発生した。例えば、クラスメイトにからかわれたり(今考えれば”からかう“という次元にも至らぬほどの些細なこと)、男の子に間違われたり、犬に吠えられたり、好きだった花が枯れてしまったり、友達の飼ってたペットが死んでしまったり。むしろ涙を流してしまう事象を見つけるアンテナが冴えていた、と言った方が適切かもしれない。
悲しい種を心に携えた私は、重いランドセルを背負いどうにか自宅の扉の前まで涙を堪える。母は在宅でとある資格勉強に明け暮れていたため、大抵家にいた。チャイムを鳴らすと「はいはーい」という母の声がする。その瞬間からもう、涙が溢れてしょうもないのだ。
扉が開く。エプロンの母がいる。どんよりとした畝雲の下、木枯らし吹きすさぶ外と比べて、ガスストーブの効いた家はとろけるほど暖かい。家の中ではちいさくピアノの音がなっている。メロディを奏でているのは、大抵、アッコちゃんだった。
さとがえるコンサートは、山下達郎『paper doll』のカバーで、前半を終えた。後半は奥田民生をはじめとするゲストとの共演がメインだった。新旧さまざまな曲が目の前で層をなして広がり、わたしは「すごい」や「きれい」の感情を忘れ、ただ目の前に現れたリズムに身を委ねていた。
公演も終盤を迎え、アッコちゃんはステージの上からとびきりニコッとしてとある曲名を告げた。それが「ごはんができたよ」だった。
これは私が一人暮らしを始めた頃から聴くのを封印していた曲だ。耳にしたら最後、絶対涙が止まらなくなってしまうからだ。
楽しかったよ 今日も
うれしかったんだ 今日も
ちょっぴり泣いたけど
こんなに元気さ
1番で歌われるのは、まさに幼少期の自分。学校から無邪気に帰ってきて、泣いたり笑ったり、怒ったり元気に飛び跳ねる子供と母さん、父さんの姿が描かれる。
淋しかったんだ 今日も
悲しかったのさ 今日も
ちょっぴり笑ったけど
それがなんになるのさ
しかし2番はそこから十数年後の子供の姿。かつての子供はすっかり大人になり、独り立ちをした。きっと色んな波に揉まれ、今日も誰もいない自室に帰ってきたんだろう、なんて思う。
ただただ、自分だった。そういえば最近だってそうだったかもしれない。みんなでお酒をのんで、たくさんたくさん笑った気がするけれど、最終電車で一人車窓を眺めていたら「結局、なんだったんだ」って思う。生きていきやすい技術や処世術、心と体を別々に動かせるようになった。けれどね、それがなんになるのさ、って。
布団に入った瞬間に、目の前にありありと浮かぶ脱力感と虚無感。昔はそれを「家族がいる」という安堵感で包むことができたけれど、もうそんな甘えを自分自身が許せない。
つらいことばかりあるなら
帰って帰っておいで
泣きたいことばかりあるなら
帰って帰っておいで
最後の歌詞。これはきっと、さらに数十年後、母になった子供が、自身の子に向かって歌っているのだろう。だからきっと、これは母が私に思っていることなのだ。けれど母も若い頃は「帰れない」時代を生きたから、「帰っておいで」なんて言えっこない。言っても帰ってこないことはよくわかっているし。だから歌うのだ。
気づけば両の掌で顔を覆っていた。自身の虚勢が見破られた気がして、悔しかったし恥ずかしかったけれど、やっぱり「帰っておいで」って言ってくれる母やアッコちゃんには敵わない。鼻水も涙もボロボロだけど、いいやどうせ、コンサートなんて誰も客の顔なんて見ないでしょう?
コンサートが終わり外へ出た。より冷たい夜に向かって、風が吹きすさぶようだった。私と母は、「あーあ、泣いた泣いた」なんていいながら、イルミネーションに輝く渋谷区を歩く。お腹すいたねえ、何か温かいもの食べたいね、なんて話す。
「あ、『ラーメン食べたい』じゃない?」
矢野顕子ちゃんは40周年を迎えた。母も気づけば歳をとっていた。私も大人になっていた。けれど、この時代に、同じような悲しさと寂しさと喜びを携えて、生きていられるだけで、なんだかそれだけで十分、生きていける気がした。
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